平田オリザ著「演劇のことば」について①

 

演劇のことば (岩波現代文庫)

演劇のことば (岩波現代文庫)

 

  今年の一月、俺は初めて青年団の芝居を観た。 青年団の芝居はおそろしくリアルで、最初の三十分ほどは女性が本を読んでいるというだけのシーンだったのだが、それでも飽きなかったくらいだ。 帰り道、吉祥寺から高円寺までの電車で、お年寄りのお母さんと中年の男性の親子が乗ってきたのだが、その会話は劇中の会話とまったく区別がつかなかった。

 そして先月は稲葉賀恵さんという文学座の方の演出でサルトルの『墓場なき死者』を観劇した。 大学の講師の方が出演されていたので観に行ったのだが、こっちもすごく巧かった。 

 だが、この二つの舞台の演技の巧さはまったく別の巧さだった。 どちらもリアルを志向していることは確かだ。 そして巧い。 だのに決定的に何かが違う。

 俺は少し間が空いてからこういう仮説を立てた。 平田オリザの芝居は、日常と同じ言葉を使っているから「墓場なき死者」のように翻訳戯曲など通常使わない言葉で書かれた戯曲に比べてリアルに思えるのではない。 平田オリザの戯曲がリアルなのは、日常と同じ言葉を使っているからではない(そもそも、だとすれば時代が変われば平田オリザの戯曲は次から次へとリアルの光彩を失っていくということになる)。 平田オリザの戯曲がリアルなのは、彼の戯曲が日本語の表現可能性に根ざした言葉で設計されているからではないだろうか、そういう仮説だ。

 

 大分長い前置きだったが、このような仮説は思い切り「演劇のことば」で論証されていた。 俺が記したような平田オリザ戯曲の性質は、彼が大変自覚的に行っていたことであり、その集成が「現代口語演劇」という理論なわけである。 ただ、平田オリザは多くの著書を執筆し、一口に現代口語演劇と言ってもその問題意識は多岐に渡るので、その理論を網羅するのはなかなか難しい。 実際、先述したようなことは俺が高校生の時に読んだはずの「現代口語演劇のために」でも結構論理的に触れられていた。 でもその時の俺は、なんとか無理やり飲み下しはしたものの、あまり腑に落ちていなかったので、ほとんど内容を覚えていなかった。 だが、今読み返すと、めちゃめちゃ良いことばかり書いている。

 

二月に読んだもの、観たもの、聴いたもの

・墓場なき死者 演出稲葉賀恵 演劇
・THE ORINGPIC 作五反田団 映画
田園に死す 映画
・消しゴム山 チェルフィッチュ 演劇
オン・ザ・ロード 映画
・舞台と客席の近接学 著野村亮太
・詩を書く少年 作三島由紀夫(再読)
・演劇1 映画
・演技と演出 著平田オリザ(再読)
・蝶のいた公園 演出加藤十 演劇動画
・厳粛な聖体拝領 作アラバール 戯曲
・Hayasaka Sachi バースデーコンサート ライブ(バイト)
・麦藁帽子 作堀辰雄

パフォーマンスアートについて

 現在「舞台と客席の近接学」という本を読んでいる。 そこに、パフォーマンスアートについてこのような説明がある。

こうした運動が概して標榜するのは、あらゆる人生は各々が演じるパフォーマンスだとみなすことができるという、一種のグランドセオリーである。 

  つまり、現実をすべて演劇と捉える発想だ。 「演出家の誕生」という本でも示されていた通り、演劇的な発想が日常生活に拡散した結果このような運動が起こっている。

 が、俺は、パフォーマンスアートにあまり芸術の可能性を感じないのだった。 それは何故だかわからなかった。 むしろ、「劇世界」という緩衝材を挟まず、生の観客にそのまま表現を届けられるのだとしたら、そちらの方がより効果を生み出すに決まっているじゃないか。

 「舞台と客席の近接学」は、ライブパフォーマンスを距離の観点から科学的に扱った本だ。 舞台と客席の距離が何故必要か、という問題に関して、著者の野村さんはこのように言っている。

緩衝空間があることにより、演者と観客との間には個人距離──他者から暴力的に自由が侵害されるおそれのあるテリトリーの範囲──よりはるかに遠い公衆距離に保たれる。 この安心感のおかげで、舞台上でよっぽどのことが起きても、客席にいる観客はそれを無防備に楽しめる。

 これが観客に、気兼ねなく存分に心を動かす準備状態を作るのである。 

  つまりは観客の精神を安全なところに置くために必要だと言っているのだ。

 しかし、俺は、「安全なところに置くため」という言い方はいささか誤謬を孕んでいるのではないかと思う。 パフォーマンスアートのように、日常生活と隣り合わせで行われるアートの方がむしろ観客の精神を安全なところに置いているとも言えるからだ。

 というのは、日常生活において人は社会的な自分として生活しているのであり、その点において日常生活の我々は芸術作品を鑑賞するような人格ではないからだ(ここ、平野啓一郎の提唱する分人の概念を使えばもっと論理的に説明できる気がするのだが、読んでない。 読もう)。

 となれば、舞台と客席の距離は、観客の精神を社会的な自己から切り離し、最適な視点で(この視点がどういう視点かを突き詰めれば面白いはず)作品を鑑賞するために必要だと言えるのだ。 その点において、劇場というシステムはただの緩衝材とも言えないはずだ。 つまり、観客が来る、という捉え方よりも、演劇によって観客になる、という捉え方の方が正しい。

 

 また、作品を鑑賞する人格を担保しさえすれば、今度こそ劇場から解放され、あらゆる場所に劇場を作ることが可能になるのではないか。

演出について②

 

jinjin09.hatenadiary.com

  先ほどこの記事で、演出がアイデアを出すべき領域とは具体的にどこまでなのだろう、と記したが、極端なことを言えば、演出はまったくアイデアを出さずとも成立するのではないかと仮説する。

 例えば、演出の仕事としてよく言われるのがブロッキングである。 しかし、まず役者が自らの純粋な演技の発露として導線を描き(つまりブロッキングのアイデアを出し)、それを演出家が自らの判断を用いて修正する、というやり方が理想的なはずだ。 そしてこの修正、というのも演出家が線を決めてしまうのではなく、演技者の発想を刺激してやるというやり方で修正するのだ。 そういえば、平田オリザも「演技と演出」でこんなことを言っていたような気がする。

 実際の上演においては、とりあえず自分のアイデアは創っておくものの、どこでそれを話すべきか(話すことでそれぞれの創造の方向性を狭めてしまうことにもなりかねない。 とはいえ、まったく放任主義なのもバラバラすぎるアイデアが出揃ってしまいかねないので、どこまで狭めるべきかを考えなければならないということだろう)を慎重にならなくてはならない。 自らも創造者でありながら、他人の創造を喚起する必要がある。 これは難しい。

 

 まだ、演出と劇作の境界の問題がまだ残っている。 これはまた今度書こう。

演出について

 何かを作るには二つの工程が必要だ。 一つは、アイデアを収集するという工程。 もう一つは、取集したアイデアの中から使用するものを決定するという工程だ。 演出とは、この「決定する」という側面が特に重要な職能なのではないか。

 音響家も照明デザイナーも舞台美術家も衣装デザイナーも様々な案を提示してくれる。 上に挙げた二つの作業は、大抵の芸術では自分一人で行うものだが、演劇においては(あいまいであるにしろ)分けられている。 各方面から提出されたアイデアを演出家の感覚に則って一つの有機体へとまとめあげるのだ。

 そしてもちろん、演出家自身が収集すべき類のアイデアもある。 これは具体的にどこからどこまでなのだろう。 カンパニーによっても異なるだろうが、どの領域のアイデアまでを演出家が集めるべきか、ということを考えるのは重要なことだという気がする。 特に、俳優の領域と演出の領域はしばしば混同しがちである。 劇作と演出もまたそうだ。

 とにかくはっきりしているのは、作品を成立させるために必要なアイデアが不足している場合、最終的に責任を持って探してくるのは(あるいは探させるのは)演出家の役割であるということだ。 例えそれがどこの担当の仕事であろうと。

今日の反省

 不意に性的マイノリティーの存在を無視した発言をしてしまうことがある。 今日もやってしまった。 俺が性的にマジョリティーだからだ。 人は、自分のマイノリティ性には敏感だが、マジョリティ性には鈍感だ。 もちろんわざとではない。 しかしそれで免責されるわけはない。 マイノリティーに対する差別的発言というのはこうして生まれていくのだ。 これからは絶対にしない。

一月に観たもの、聴いたもの、読んだもの

ライ麦畑の反逆児 ひとりぼっちのサリンジャー(二回目) 映画
・灰から灰へ 作ハロルド・ピンター 戯曲
ノルウェイの森 映画
プライドと偏見 映画
・葵の上に舞台が咲く─自刃せし男の一編─作kop 演劇
・理由なき反抗(二回目) 映画
・おーい、救けてくれ!(再読) 作ウィリアム・サローヤン 戯曲
・眠れない夜なんてない 作・演平田オリザ 青年団 演劇
・チンピラ 1996年版 映画
・俳優のノート 著山崎努
・新 演技の基礎のキソ 著藤崎周平
・パレード ホリプロ ミュージカル
檸檬 作梶井基次郎(書き写し)
クラリネット四重奏 めだかやカルテット  ライブ(バイト)