今年の一月、俺は初めて青年団の芝居を観た。 青年団の芝居はおそろしくリアルで、最初の三十分ほどは女性が本を読んでいるというだけのシーンだったのだが、それでも飽きなかったくらいだ。 帰り道、吉祥寺から高円寺までの電車で、お年寄りのお母さんと中年の男性の親子が乗ってきたのだが、その会話は劇中の会話とまったく区別がつかなかった。
そして先月は稲葉賀恵さんという文学座の方の演出でサルトルの『墓場なき死者』を観劇した。 大学の講師の方が出演されていたので観に行ったのだが、こっちもすごく巧かった。
だが、この二つの舞台の演技の巧さはまったく別の巧さだった。 どちらもリアルを志向していることは確かだ。 そして巧い。 だのに決定的に何かが違う。
俺は少し間が空いてからこういう仮説を立てた。 平田オリザの芝居は、日常と同じ言葉を使っているから「墓場なき死者」のように翻訳戯曲など通常使わない言葉で書かれた戯曲に比べてリアルに思えるのではない。 平田オリザの戯曲がリアルなのは、日常と同じ言葉を使っているからではない(そもそも、だとすれば時代が変われば平田オリザの戯曲は次から次へとリアルの光彩を失っていくということになる)。 平田オリザの戯曲がリアルなのは、彼の戯曲が日本語の表現可能性に根ざした言葉で設計されているからではないだろうか、そういう仮説だ。
大分長い前置きだったが、このような仮説は思い切り「演劇のことば」で論証されていた。 俺が記したような平田オリザ戯曲の性質は、彼が大変自覚的に行っていたことであり、その集成が「現代口語演劇」という理論なわけである。 ただ、平田オリザは多くの著書を執筆し、一口に現代口語演劇と言ってもその問題意識は多岐に渡るので、その理論を網羅するのはなかなか難しい。 実際、先述したようなことは俺が高校生の時に読んだはずの「現代口語演劇のために」でも結構論理的に触れられていた。 でもその時の俺は、なんとか無理やり飲み下しはしたものの、あまり腑に落ちていなかったので、ほとんど内容を覚えていなかった。 だが、今読み返すと、めちゃめちゃ良いことばかり書いている。