差別について②

  道徳の授業などで、よく区別と差別は違うなどということが言われる。 ではどう違うのか。 ここでは区別とは「差を認めること」、そして差別とは「差によって扱いに違いをつけること」であると定義しよう。 となれば、例えば女性であることによって男性と異なる対応をするのはそれがどんなものであれ女性差別的であろうし、年齢によって態度を変えるのも年齢差別的だと言える。 もっと踏み込めば(子供の議論のように聞こえるかもしれないが、正論だと思う)、人間と動物を種の違いによって扱い分けるのも差別だと言える。
 もしも完全に差別を根絶するとすれば、全ての事物は水平下される。 繰り返す、ここでの差別とは「差によって扱いに違いをつけること」である。 以上の議論より、前出の意味における差別をなくすことは不可能である。 となれば、我々が考えるべきことは、差別をなくすということではない。 どう差別するか、という問題になる。 不当な差別とは何か、認められるべき差別とは何か。

差別について

 差別問題の難しい点は、差別対象カテゴリーの人間が保持しているとされる悪性が実際にそのカテゴリーの人間の中の一部に認められるという点にある。 そしてその悪性を保持している人間が多数である場合も少なくないという点にある。 例えば、9.11以降イスラム教の人々に対する差別があったが、確かにテロ行為に及ぶ可能性のあるイスラム教徒の人間は存在していたのであり、差別をする人間はそこを強調し、彼らを排除しようとする(ドナルド・トランプのように)。

 つまり、差別をしないというのは、カテゴリーで人を区別しないということだ。 これは功利主義の考えとは矛盾するところがある。 もしも全体の最大の幸福が目的なのだとしたら、時に差別は有効に働く。 その例が昨今のコロナウイルス関連の差別で、都市部から帰還した人間はコロナウイルスに罹患している可能性はあるが、その全員がそうではないという単純な事実を無視し、卑劣な行為に及んでいるのだ。 だが、やはり都市部からの帰還者が田舎にいる人間よりコロナウイルスに暴露している可能性は高い。 だからこそ人々は前述の功利主義に基づいて、彼らを差別することを厭わない。 そして、それが差別であるということにもなかなか気づけない。

 現代人は基本的に差別はいけないことだという風に教わるし、自分は差別などするはずがないと思っている。 しかし、差別というのがどういうものか、そして差別がいかに簡単に生まれるかといった差別をする側の心理について何らの教育も施していない故に、人々は自覚なしに差別を生産する。

殺人者に対する恐怖について

 殺人者が隣にいれば怖いだろう。 しかし、戦争で殺人をした軍人がいても怖いとは思わないだろう。 つまり、殺人者に対する恐怖は殺人を犯したということ自体にはない。 倫理に反する可能性のある、つまりは犯罪可能性があるという点において恐怖なのである。 犯罪者の倫理は我々の倫理と食い違うから。 しかし、その二つの倫理は相対的なものでしかない。

すごく嬉しいプレゼント!

 今日まで友達の家に居候していたのだが、昨日、大きい書店に出かけた帰り、サプライズでプレゼントをもらった。 その書店はカフェや雑貨屋を兼ねた複合施設で、随分本も充実していたので、気になったものをちらちら立ち読みしていたら、その友達が従姉妹の誕生日プレゼントを買ってくるというので、一人で見てまわることになった。 それからなんだかんだで、友達はオードリー・ヘップバーンの写真集などを買って我々は店を出た。 それで路面電車が来るのを待っていると(ちなみにこれが終電で、間に合わないかもしれなくて結構走った)、実は従姉妹の贈り物だと思っていた袋は実はなんと俺への誕生日プレゼントで、とてもうれしかった。 茶色のスウェードのブックカバーで、早速その時持っていた文庫本に合わせてみると、とてもいい感じだった。

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ありがとう!



 

シニシズムについて、批評家的な態度について

 小学校高学年あたりからしばらく(多分『リーガル・ハイ』を見出したあたりから)、冷笑主義的な態度がカッコいいと思っていた。 けど、段々、そういう生き方が好きではなくなってきた。 シニシズムの魅力というのは、相手より一段メタレベルに立つことができるという点だが、それはまさに自分への冷笑を回避するための防衛手段に過ぎない。 そういう姿勢に飽きた。 今の俺は、むしろ真剣に、必死に、自らにできる限りの言論を行う人々にあこがれる。

 

 それから、何でもかんでもうまいこと言おうとする、批評家的な態度はやめよう。 この批評家的な、という言葉は佐々木中著『切り取れ、あの祈る手を』からの引用で、あらゆることに対してどうにかそれらしい論を立てようという態度のことである。 けれど、それらしいことが言えたとして、そしてそれが論理的に正しいとしても、そのように言論を弄するのには何の意味もない。 そのような論述は、きっと誰かが既に書いているから。 本当に意味のあることを言おうとすれば、誠実に対象と向かい合うほかない。

推しができない人のための推し製造方法

 

jinjin09.hatenadiary.com

  おれはこの記事で、推しについて割りかし批判的に論じたが、推しには強力な効能がある。 それは、寂しさを埋めるという効能である。 大きな物語が解体され、自由が獲得された代わりに現代人は寂しさにつきまとわれることとなった。 家族がいようが友人がいようが恋人がいようが、一人でない時間というのはどうしてもできるし、その時間に意味づけができないとすれば、そこにどうにかして価値を付与する必要が出てくる。

 人間の実際的な寂しさが以上のような哲学的淋しさによって担保されるとき、おれは何をどうすればこの空虚さが満たされるかともがき苦しむことになり、結局意味も価値も与えられないままに時間を溝に捨ててしまうことになる。

 

 ところで、最近おれのいとこがspoonというアプリで弾き語りを始めた。 それは誰でもラジオができるアプリで、視聴者はコメントにて配信者と話をすることができる。 YouTubeライブ配信などとは気風が違い、コメントとの交流に重きが置かれており、話の内容にはほぼほぼ意味がない。 全体的な気風はオタク的で、そして象徴的なことに、配信のタイトルをスクロールしていると、寂しさを解消するための配信がほとんどを占めていた。 『ゲーム的リアリズムの誕生』の言葉で言うと、このアプリは思い切りコミュニケーション志向メディアだ。

 おれは当初そのいとこの配信を観るためだけにそのアプリケーションをダウンロードした。 しかし、ある寂しさが頂点に達した夜、藁にもすがる思いでこのアプリを開き、漫然と配信を覗いていった。 大抵の配信者はあまりにあざとくてこちとらこんなに推しを求めているのに推すことができなかった。 そして最後にたどり着いたのは、「俺なんて……」みたいなことを言う古参らしいリスナーに、同じような悩みを抱えていそうな口調で語りかける女の子の配信だった。 このアプリには、誰かが入ってくると配信者が「〇〇さんいらっしゃい〜。 ゆっくりしていってね!」と挨拶する慣習があるので、一応存在は認知されているのだが、内容がずっと内輪の内容だったから、数人で遊びに行って深夜になってみんなは深刻な話をしてるけどおれは寝たふりしてその話を聞いてる、みたいな気持ちになった。 けどそれがやけに心地よくて、その日はなんとか眠ることができた。

 そこでおれは、寂しさを埋める応急処置的手段としてこういうのはいいんじゃないかと思い立ったが、ここで表題の問題が浮上した。 おれは推しを持つ人々にこういう疑問を持っている。 

「別にその人じゃなくても良くない?」

 と。 現代にはあまりに多くの可能性がある。 現実であれば、それは例えば土地や地位や慣習によって定められるところもあるが、インターネットの世界においては膨大な選択肢が膨大なまま残ってしまう。 情報のスケールフリー性があるとはいえ。

 だから、推しを作ろうと思っても、同じ記号的要素を持った人間は他にどれだけでもいるので、推し足りえないという問題は発生するのだ。 推しは人間ではないが、かといって完全な記号だと思ってしまったとき、寂しさはまったく埋まることはない。 記号を人間だと錯覚させる必要が出てくる。 そこで必要なのは必然性だった。

 そこで! おれは、spoonのフォローを三人に限定することにした。 応援する人を三人に限定することで、必然性と記号性が均衡に保たれるのだ! 素晴らしい!