十二月の動物園

 Rという友人と、動物園に行って来た。 そこは、小さな遊園地と一体型になっているので、そちらでも少し遊んだ。 あまり時間がないので、走り書きのようになってしまうこと(これはいつもだな)申し訳なく思う。

 Rは、未だ十七歳の癖に、「苦悩」という題のついた彫刻のような顔つきをしている。 真面目にしている時は勿論、微笑にも、大笑にも、ニヒルな苦渋が滲み出ているのである。 このように書くと、一見、全く動物園など似合わない、若年寄りのように思えるのだが、そうではない。 彼の名誉を担保するためにも、もう少し詳しく記述しておく必要があるだろう。 

 我々二人はおそらく、園内に来ていたどんな小さな子供よりも、動物園を楽しんだ。 僕は、今日生まれて初めて、自らの意思で屋外ジェットコースターに乗ったのだが、その際も、最も大きな声で快哉と恐怖を叫んでいたのは我々であったと自負している。

 このように、彼はむしろ、物事を楽しむということにかけて、何らの不具合もない男なのである。 では、彼の纏っている懊悩の風は、ただの勘違いであろうかと言われれば、それもまた否であると言わざるを得ない。 というのは、彼が精神の内で泥沼のような格闘を繰り広げ、現実の不条理に何度も苦虫を噛んでいるのも確かなことだからだ(少し修辞的表現が過ぎたかもしれない)。

 ではどうして不具合がないのか、それは全く可笑しな質問で、「だからこそ」不具合がないのである。 思索に耽り、たくさんの本を読み、悩み、時には言葉を弄んでしまったり、観念の遊戯に過ぎないたわ言を考えついたりする中で、その空疎が逆説的に、原始的な楽しさをより一層際立たせてくれるのだ。 もっとわかりやすい言い方をするなら、そのような憂悶を通して、何が大切で、何が大切でないか、公平とは何か、そして、幸せとは何か、そういったことが浮き彫りになってくるということだ。

 だんだん、書いていてわけがわからなくなって来た。

 何が言いたかったかというと……つまり、そういった憂鬱と煩悶の経験があるかないかで、話している時のこちらの気楽さがまるで違うのだ。 「この感覚は人に伝わらないかもしれない」とか「こんな思想を語っても全く興味がないだろう、むしろ気取っていると思われるだけだろう」などと考える必要がなく、例えそれが気取りであっても、純粋な思考であってもぽんぽんと話すことができる。

 遊園地は、子供の頃の印象とは違い、意外と人が多かった。 家族連ればかりで、若者がいなかったので、時と場合によっては深い憂鬱をもたらしたことだろうが、今日はそうではなかったので、ただ単純に遊園地を楽しむことができた。 ジェットコースターを降りた後は、多分、極度に緊張して足の筋肉が張っていたのだろう、ふとよろけそうになるくらいに、力が抜けてしまった。 

  動物園で最初に遭遇したのはペンギンであり、その次がリスザルであった。 ペンギンの腕についた個体識別のための輪っかが、初冬の動物園に合まって哀しかったという趣旨のことをRは言っていた。 僕もそう思った。 リスザルには特別のコーナーがあり、檻越しでなく直接彼らを見ることができた。 リスザルの目は洞穴のようだった。 彫刻刀で目玉を抉られてしまったかのようだった。 反面、手が非常に人間に似ていた。 猿なので人間に似ているというのは知識としては知っていたが、その手の、あまりに我々と相違ない動きに、小さな感動さえ覚えた。 手足はマスタード色の手袋を履いたみたいだった。

 それからも様々な動物に出会ったが、印象に残ったものだけを書き記しておく。 印象に残ったのに書かないこともあるが、やはり書きたくないので、書かない。

 羊はひどく怯えていた。 僕たちが少し近づこうとすると、狭い柵の中を音も立てずに逃げるのである。 しかし、その逃げ方には諦めが滲み出ていた。 群れからはぐれた羊には、生きる希望というものがないように見えた。

 ラマは唾が非常に臭いらしかった。

 オオカミとキツネが可愛かったが、オオカミの方は、見ているうちにだんだん秋田犬に見えてきた。

 鳥が生息している大きなドームがあった。 入ると、大きな木の枝に、白いトキと赤いトキが、祭りの灯籠のように並んでいた。 赤いトキの名前は、ショウジョウトキというのだが、僕はすっかりショウジョウトキに魅せられてしまった。 その赤色は、灯篭の赤であり、谷崎潤一郎新潮文庫の赤であり、美女の着物の赤だった。

 フラミンゴは意外と汚い水の飲み方をした。